Mag-log in史緒里は手土産を持って、祐市の実家へと訪問した。
「おばさま、お久しぶりですぅー」
祐市の母、美鶴と史緒里はよく見知った仲だ。
祐市と恋人だった頃、史緒里はよくこの家に遊びにきていたし、有名な霞ヶ浦家のお嬢様だということもあって、美鶴は史緒里のことを可愛がっていた。
「まあまあ、史緒里ちゃん、本当に久しぶりねえ」
「これ、お土産です」
「そんなの、気にしなくていいのに」
美鶴は史緒里を茶室に通し、歓迎のための茶を自らたてて出した。
「海外に行っていたんですって?」
「そのことなんですけど、おばさま、理由はなんて聞いています?」
「自分探しと語学の研鑽のためってきいているけど?」
「実はそれ、嘘なんですぅ」
史緒里はよよと泣き崩れる。
「実は2年前、胃がんが見つかって、幸いに初期段階ではあったんですけどぉ、国内では治療が難しいってことで海外で治療を受けていたんですぅ」
「あらあら、まあまあ、大変だったのねえ」
史緒里は抗がん剤の副作用がいかに苦しかったか、知る人もいない海外の病院で弱ってゆく病気の自分がいかに哀れだったかを延々と語って美鶴の同情を散々に引いた。
「そんな日々を耐えられたのは、ただ、もう一度だけ祐市さんに会いたいという、愛のためだったんですぅ」
「ううっ、なんて美しい愛なのかしら」
美鶴がハンカチで目を抑えている隙に史緒里はペロリと舌を出す。
これみんな嘘だから。
「なのに、ようやく体が治って帰ってきたら、祐市さんには妻がいる、この絶望、わかります?」
「わかる、わかるわよ、史緒里ちゃん、でもね、あの2人は別に愛し合って結婚したわけじゃないの」
「だけど、私……祐市さんのお嫁さんになりたかった……」
「ううっ、じおりぢゃん〜」
美鶴は持っていたハンカチで涙を拭い、ついでにブビーと鼻をかんだ。
「私が離婚するように言ってあげるわ、あの二人が別れたら、あなたが新しい花嫁さんよ!」
「えー、でもそれって、なんか割り込むみたいで申し訳ないですぅ」
「何を言っているの、先に割り込んだのはあの女の方よ! それにね、あんな生まれも素性もわからない女なんて。私は一度も嫁として認めたことはないわ!」
みやびが祐市のボディガードだということは、美鶴には特に絶対知られないように配慮されている。
ちょっと世間知らずで思慮の足りないこの義母に知られれば、警護計画に大きな穴が開きかねないからだ。
だから美鶴にとってみやびは、祖母がどこかから連れてきた育ちの悪い野良犬みたいな女にしか見えなかった。
野良犬に比べたら、霞ヶ浦家といういう血統書付きの史緒里の方が何倍もよく見える。
「あんな女、身一つでこの家から叩き出してやるわ!」
「わあ、頼もしいです、おばさまぁ、あ、でも……」
ここで史緒里は、ちょっと俯いて言いにくいことを言いますよ〜的な雰囲気を作る。
「離婚すると祐市さんの持ち株を取られちゃうって……」
「あー、そうね、それがあったわね」
それは美鶴にとって義母にあたるあたる寿子が決めた事。
寿子は現在の日立家の当主代理であり、美鶴如きにその決定を覆すほどの権力はない。
「あ、おばさま、こういうのはどうです、おばあさまをヒョイっと消しちゃえば、祐市さんが当主になるでしょ、そしたら、そんな約束反故にできるんじゃないですか?」
「史緒里ちゃん、消すって……」
「ああっ、やだなあ、言い間違えちゃった、引退してもらうって言いたかったんですぅ」
「あ、あはは、なるほどね〜」
とはいえ、実際には寿子は歳の割に元気であり、引退などしそうにない。
本当にトップの座を開けてもらうためには、彼女にきちんと後継者として認められるか、あるいは彼女を消すかの二択しかないわけで……。
「株さえ渡しちゃえば離婚は簡単よね……」
少し及び腰になる美鶴だったが、史緒里はそれを許さない。
「ダメですよ! あんな野良犬みたいな女には株の価値なんてわかんないですよ、宝の持ち腐れじゃないですか!」
「そうなのよね、私も、あんな女にはビタ一文渡したくないんだけど、離婚するにはね〜」
「おばさまならそこをなんとかしてくださると、私、信じています!」
「え、わ、私?」
「お願いしますおばさま、私にはおばさましか、頼れる人がいないんです」
「え、えーと」
「ね?」
上目遣いでうるうるっと見上げる史緒里の圧に負けて、美鶴はついに頷いた。
「わかったわ、こういうのはどうかしら、あの嫁を徹底的にイビリぬいて、彼女の口から『株はいらないから離婚させてください』と言わせるのよ!」
「わあすごい、おばさま、期待してますぅ!」
などと、史緒里と美鶴はみやびを無一文で追い出す気満々だが、当のみやびは……
「正直、株とかいらないんですよ」
彼女は今、日立家の本家の日本庭園にて、寿子を相手に太極拳のレッスン中である。
大きく胸に息を吸い込み、ゆったりした動きで細く大気に呼吸を溶かしながら、みやびは自分が離婚を考えていることを寿子に報告する。
「そもそもこの結婚は、警備のための偽装だったわけですし、スッキリきっぱり後腐れなく別れた方がいいと思うんです」
離婚したら持ち株云々の話を最初に持ち出したのは寿子の方である。
孫である祐市の頑固さをよく知っている寿子は、彼が離婚しようとするのを封じ込めるためにこの条件を持ち出した。
祐市の持ち株は彼の底なしとも言える資産の根幹であると同時に、彼が役員会で十分な権力を振るうための持ち札であ利、これを失えば日立家の後継者候補筆頭という立場さえ失いかねない。
恋愛小説的にいえば、夫の立場を奪って彼を没落させる復讐チャンスタイムではあるが、みやびが求めているのは復讐ではない。
「株式譲渡に関する権利を全て放棄します。それならば祐市さんも素直に離婚に応じてくれると思うんです」
寿子は「はー」と深く息を吐いた。
それが太極拳の呼吸法だったのか、孫嫁の身を案じたため息だったのかは、本人しか預かり知らぬこと。
「本当にそれでいいのね?」
寿子の問いにみやびは迷うことなく頷く。
「そもそもこの結婚は警護のための偽装ですから」
「それでも二年も一緒に暮らしたんだから、祐市の方も、少しくらい情ってもんがあるんじゃない?」
「いいえ、これっぽっち少しも驚くほどないです」
「そ、そう? そんなに断言する?」
「そもそも警護するだけなら他にもやりようはありました、それを安易に結婚という形で偽装しようとしたのは、そこに私の邪心があったからです」
その邪心とは祐市に対する愛。
みやびは今でも祐市に対して強い恋情を抱いている。
「愛しているからこそ全てを差し出して彼を守りたかった、だけど”初恋”が帰ってきた今、愛しているからこそ彼の幸せのために身を引こうと思う、それが偽らざる私の本心なんです」
「あなたがそう決めたのなら、私からは何も言えないわ。だけど、警護計画はどうなるの」
「そこはきちんと努めさせていただきます。実はですね、反祐市派のリストアップが完了いたしました」
それを聞いた寿子の表情が、きゅっと厳しく引き締まった。
「つまり、武力による制圧を開始するってことね」
さっきまでの孫嫁と太極拳をしていたほのぼのおばあちゃんの面差しとは打って変わって厳しい、冷徹な当主代理の顔だ。
「作戦の進捗予想は?」
「できるだけ穏便に済ませるためにまずは交渉を行なっております。ただ、交渉に応じない過激な家がいくつかありまして……」
「許可します、そんな家は潰しておしまいなさい、見せしめにもなるでしょう」
「はい、その際の戦闘行動には私も参加する予定です」
「終了予定は?」
「三ヶ月……いえ、一ヶ月で完了させます、その間は敵に気取られないよう、今までと変わらぬ生活をお願いします」
「つまり、あなたの離婚の話も一ヶ月間持ち越しっていうことね」
寿子の表情がふっと緩んだ。
「ねえ、一ヶ月もあれば、あの子の心も変わるんじゃないかしら」
「それはどうですかね」
「あなたが本物の”霞ヶ浦史緒里”だっていっちゃってもいいのよ、そろそろあの子も真実を知るべきでしょう」
「……これは私が好きな恋愛小説をもとに考察したことなのですが」
「うん?」
「”本物令嬢”は”偽物令嬢”に虐げられるのがセオリーです」
「ううん??」
「つまりですね、血筋だけ正当な本物令嬢が、養女である偽物令嬢が暮らしている家に帰った場合、その立場を奪うために帰ってきたのだと逆恨みされてドロドロした争いが起きてですね……」
「ちょっと待ってちょうだい、それ、小説の話よね?」
「はい、でもここには十分な教訓が含まれていると思います。私が本物の”霞ヶ浦史緒里”だと名乗ることは得策ではありません」
「そう? そうなの? あーそうかも。でも、本当にそれでいいのね?」
「はい、もう決めましたので」
「わかったわ、作戦完了とともにあなたたちの婚姻に関する取り決めを全て解除します。心置きなく離婚なさい」
「ふふっ、心置きなく離婚って面白い言い回しですね」
「結構本心よ、あの子はあなたに冷たすぎるもの、良ければもっと良い再婚相手を紹介するわよ」
「あ、恋愛小説的には祐市さんの叔父にあたる人がセオリーです。祐市さんと年の近い隠し子だったりするとさらに良いです」
「残念ながら既婚者で禿げてて血のつながったおじしかいないわねえ」
「まあ、おじ云々は特に期待してませんし、今は……作戦に全力を注ぎたいので恋愛ごとは不要です」
などと、みやびが無一文で追い出される気満々でいる頃、その夫である祐市は……
「本当に奥様と離婚なさるおつもりですか」
そう聞いたのは祐市のアシスタントを務める笠間だ。
彼らは今、祐市のオフィスでコーヒーブレイク中である。
離婚の話になったのは。アシスタントである笠間が祐市のプライベートの一部も管理しているから、知っておくべき情報だと考えてのことである。
「離婚なあ、離婚かあ……」
コーヒーを一口啜りながら、祐市は遠くを眺めるような目をした。
「二年も一緒に暮らしてきた妻を、そんな簡単にポイするのって、どうなんだろうな」
さすがはクズだが常識ある男、初恋が近くにいない時は真っ当な思考能力がある。
「ならば、史緒里さんと別れますか?」
「それもまたなあ、あー、両方と上手く付き合う方法ってないのかなあ!」
やはりクズである。
「そもそも、離婚したら俺の株が全部あっちに移るって条件が厳しすぎるんだよ、おい笠間、実際問題何%手元に残せば俺の発言権は確保される?」
「70%程度あればいいかと」
「つまり持ち株のうち30%は譲渡する、残りは現金で補填するという形にすれば、離婚の条件としては悪くないんじゃないか?」
「離婚時の慰謝料は夫婦共有財産の50%が常識ですからね、むしろ破格の条件なのではないかと」
「決まりだな、その条件で交渉してみよう」
馥郁としたコーヒーの湯気を楽しみながら、祐市は満足げに頷いた。
だが笠間の方は少し不満顔だ。
「社長、差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか」
「なんだよ」
「金銭的な問題はそれで解決するかもしれませんが、奥様のお気持ちはいかがなものでしょう。あれだけ社長を愛していらっしゃったのですから、納得のいかないところはいくつもあるかと思うのですが?」
「愛してたぁ? あいつが? 俺を?」
祐市は鼻先でわらう。
「愛してたのは俺の金だろ」
アシスタントとして祐市の傍にひかえる笠間は、みやびの献身をいくつも目にしてきた。
そもそも祐市が嫌がったからと結婚式もあげずに、隠れ妻としてひっそりと暮らしていることからして愛の証なのに!
「思い出してください、社長、あなたが酔うと私はいつも奥様にお迎えをお願いしていました。奥様わ私からの電話を受ければ365日24時間いつでもどこでも5分以内に駆けつけてくださった、これを愛と言わずなんというのです!」
愛ではなく警護の一環である。
「それだけじゃありませんよ、パーティー会場でも、他人のふりをする社長のことを責めず咎めず、常に3歩下がった位置から優しく見守っていらっしゃった、これを愛と言わずして! なんというというのです!」
それも警護の一環だ。
どうやらこの笠間という男、仕事はできるが恋愛脳がすぎる。
「金銭には変えられない確かな愛が、そこにはあったのです!」
興奮して叫ぶ笠間に、祐市は冷ややかな視線を向ける。
「愛なんかねえよ」
「なぜです?」
「嫉妬してくんなかったんだよ」
「は?」
「嫉妬だよ、嫉妬、、史緒里を連れて帰ったときにさ、俺のことを愛してるなら嫉妬してきゃーとかぎゃーとかヒスるもんだろ、だけどあいつは……いや、確かに興奮はしたんだけど、あれは……嫉妬じゃなかった」
「ん、社長、それって……」
もしかして愛されたいと心のどこかで願っているんじゃないか、と笠間は思った。
思ったけれど口に出しては言わなかった。
それは祐市自身が気づくべきことであって、他人である自分が口を出しても聞いてすらもらえないだろうと思ったからだ。
「ともかく、先ほどの条件で離婚協議書を作成してくれ。愛はなくとも二年も妻として近くにいてくれたんだ、きちんと義理は果たしたい」
「承知いたしました」
こうして三者が三者とも”離婚”に向けて動き出した。
本来なら目標が同じなのだから、どこかで話し合うとか擦り合わせるとか、ことを穏便に済ませる手段はいくつもあるはずなのだ。
だが同じ目標に向かっていながら、自分の意見だけを最優先して思い込みで身勝手に動くから、ことは拗れて混戦する。
これもまた、恋愛小説のセオリーである。
二人が最初に向かったのは、もちろん半蔵門。早速あやめが講義を始める。「ここが半蔵門、半蔵率いる伊賀同心組の屋敷がこの近くにあり、彼らが警備を担当したというのがその名の由来だと言われています」「ハンゾー、シッテル! ハットリハンゾー! ブンシンノジュツ!」「実際の忍者は分身しません」「じゃあ、ヘンゲ!」「私自身もオタクなので創作物の中の忍者を否定するつもりはありませんが、実際の忍者と創作の忍者は別物です。物理法則や常識を凌駕するような術は、創作物の中だけの話です」「ホンモノニンジャ、ヨワイ?」「弱くはありませんね、彼らがこの門の警護を任され、家康公からの信頼を得ていたのは、有事の際に彼の身を守ることができるプロ集団だったからです」「ケービイン! タタカったことあります、シオリ、ツヨい」「そのシオリさんという方のことは存じ上げないのですが、まあ、そうですね、情報戦に強いエリート警備員だと思えばいいです、普段は城下で情報収集や、諜報を行い、陰ながら江戸の平和を守っていたわけですよ」「おう、キリコさん!」「その方のことも存じ上げないのですが、まあ、なんとなく把握しました。ネットで言ってましたものね、“ニンジャを見た”って」「スィ、ニンジャはいまもイル」「その話は後ほど、その前に、この半蔵門の説明をしますね。ここは江戸城の裏門、正確には“搦手門”というのですが、有事の際には城内からこの門を使って脱出して、こっち、見えます、ここ?」あやめが指さしたのは甲州街道。今ではなんの変哲もない道である。「この甲州街道を通って甲府城まで家康公を無事に送り届ける、そのために伊賀衆がここに配置されていたと言われています。簡単にいうと江戸城のバックドアの門番ですね」「セキュリティ、シオリさんとオナジ」「そうなんですね。さて、それはさておき、今日はこの甲州街道を辿って、半蔵ゆかりの地を巡りますよ」甲州街道を並んで歩きながら、あやめは解説を続ける。「創作物では“服部半蔵”が本名であるかのように語られていますが、今話しているのは服部半蔵正就、つまり“3代目服部半蔵”のことなんですよ」「サンダイメ? ハンゾー、いっぱいいた?」「いっぱいはいませんけど、正就はお父さんから“服部半蔵”の名前をついだんですよね、つまり個人名じゃなくて役職名みたいな感覚でしょうか
これは、マフィアでありながら日本のサブカルチャーをこよなく愛する男、ジョバンニの物語である。ある土曜日の朝早く、ジョバンニはシャドーストライプの入ったダークカラーなスーツをピシッと着込んで、ボルサリーノを粋にキメ、イカす靴を履いて、すっかり正統派マフィアスタイルで出かけようとしていた。仲間たちがこれを見て囃し立てる。『なんだ、ジョバンニ、デートか?』ジョバンニは至極真面目な顔でこれに答えた。『いや、フィールドワークだ』『なんの』『もちろん、ニンジャの』『お前は……時々意味不明だな』ジョバンニのルームメイトであるルカが補足に入る。『あー、ジョバンニのやつ、今はニンジャにハマっててさ、毎晩ネットで、歴史に詳しい人とやりとりしてるんだよ』ジョバンニが誇らしげに頷く。『スィ、"オシショーサン"。フィクションの忍者にも、歴史の忍者にも詳しいセンセイ』なるほど、つまり、オフ会である。『どんな人だよ、オシショーサンって』『知らない、けれどイメージはある』ジョバンニは、うっとりと目を細めて、オシショーサンの姿を幻の中に思い浮かべる。『オシショーサンは博識、質問すると丁寧な長文回答をくれる。ネットの文章は礼儀正しくて古風。忍者の血を引く老師みたいな人』『なぜそう思った』『名前、オシショーサン、“千葉の滝夜叉丸”』『なるほど……?』それはネットでの通り名であって、多分本名には掠ってもいないと思うのだが……だが、ジョバンニの勘違いは止まらない。『オシショーサンはきっと年上の方、ならばこちらも、礼儀を尽くした格好でお会いせねば』『そうか、まあ、頑張れよ』待ち合わせ場所は半蔵門駅改札口。駅名を見ただけで、もう、ジョバンニ大興奮。『ハンゾー! ハットリハンゾー! ニンジャキング!』だがすぐに、敬愛するオシショーサンにみっともない姿を見せるわけにはいかないと、キリッと表情を引き締め直す。『礼儀とワビサビ、ニホンのココロ』ボルサリーノをちょいと整えて辺りを見回せば、ちょうど改札を通る一人のご老人が。『マンマミーア! 想像した通り、オシショーサン、老師!』その老人は長い白髪を後ろでキュッと一つに結んで、顎にはこれまた真っ白な山羊髭をフッサアと生やした——ありていに言えばカンフー映画に出てくる“老師”みたいな風体をしている。実はジョバ
某日、霞ヶ浦警備保障の通常訓練でのこと。指導官がみんなの前に、とてつもなく顔のいい御曹司を連れてきた。「あー、彼は……とりあえずバイトで入った日立祐市くんだ。実際の業務に関わるというよりは、自己鍛錬のために来たらしくてな……」指導官は困惑顔だが、祐市は堂々としたもの。「日立祐市だ、財力でここにねじ込んでみた、よろしく頼む」居並ぶ霞ヶ浦警備保障通常警備員たちは、その全員が反応に困ってオロオロと身を揺らす。「あの、指導官、彼は……」「ああ、お坊ちゃんがちょっとハードなエクササイズ気分でやってきた、みたいなアレだな。だが安心しろ、彼には特別指導員をつけてある、君達の訓練に影響を及ぼすことはない……はずだ!」特別指導員としてやってきたのはあの男――爽介だ。彼は現役のエージェントであり、その肉体は無駄を一切削ぎ落とした形で鍛え上げられている。表情も凛々しく、立ち姿にも安定感がある彼は、犬で例えるならばシェパードといったところか。爽介の前で一丁前にピシッと姿勢を正して立つ祐市は、犬に例えるなら柴犬……「いいえ、あれは豆柴よね、みて、強さが一切感じ取れない……」「わかるわ、うちの実家の犬に似てる。本人だけは凛々しいつもりだけど、可愛さしかないあれよね」女性隊員たちの囁き声に気づかず、祐市はますます胸を張る。「俺は史緒里を守れるくらい強くなりたいんだ、ぜひ、厳しく、頼む」無理筋がすぎる。爽介は呆れて首を振った。「まあそれは、おいおいということで……まずは基礎訓練からな」しかしこの豆柴、魂は狼(のつもり)である。不服そうに鼻を鳴らして抗議する。「いや、実戦形式で頼む。俺は1日も早く、史緒里を救いに行きたいんだ」「うっわ、扱いずっら」ここで指導官が助け舟。「どの程度の“実戦”を組めばいいのか、まずは君の力を見極める必要がある、そのための基礎訓練だよ」「なるほど、一理ある」まずは腕立て伏せから。祐市は張り切って両手を大地につけた。「いーち!」「ふっ、余裕だな」「にーい!」「まだだ、まだいける!」「さーん!」「くっ、ここを……乗り越えれば……!」祐市の両腕はすでにプルプルと震えている。だが表情は凛々しく、キリッと前を向いて。イケメンゆえに、額にびっしり浮かんだ汗が流れ落ちるのが、まるでアクション映画の主人公であるかの
戦い済んで――戦士たちには平穏な日常が戻ってきた。VIP病室には茜色の夕日が差し込んでいる。清潔なベッドには、静かな寝息を立てる祐市。ベッドの傍らに立つ史緒里は、祐市の穏やかな寝顔に、そっと手を伸ばした。「祐市さん……」無事を祈って震える声。心配して泣き腫らした目元。まるで重症者に対する振る舞いだが、実際には祐市は“念のため”に受けさせられた精密検査で疲れて眠っているだけだ。そもそも鬼神もかくやという史緒里がそばについていながら、怪我などさせるわけがない。祐市は幸せそうに微笑んで、むにゃむにゃと寝言を言った。「史緒里、結婚式をやり直そう、君の存在を公に発表するんだ……」その破壊力に、史緒里がズシャァと膝から崩れ落ちる。「ああっ、祐市さん、こんな時まで恋愛小説のクズ男っぽいなんて! わかります、わかりますよ、とりあえず結婚式を約束すれば、女はおとなしく納得してくれると思い込んでいる傲慢御曹司系クズ男のセリフです、それ! しかも寝言で本音が漏れる王道演出! 神ですか、あなたはクズ男の神なんですか!」床の上で身をくねらせてしばし悶絶した後、史緒里はすっと立ち上がった。その表情には、すでに冷静さが戻ってきている。「でもね、祐市さん、クズ男の結婚の約束って、反故になるのがセオリーなんです。愛人の妨害にあったり、奥さんがクズさに見切りをつけて失踪したり……だからそのセリフ、フラグなんです」言ってることはこれっぽっちも冷静ではないが。史緒里は親指で祐市の唇に触れ、その形をなぞった。「だから、そのフラグ、回収しますね、お別れです」史緒里は親指をどけ、彼の形良い唇に自分の唇を重ねた。寝息を舐めるような、静かなキス。まるで時間が止まってしまったかのような、ただ静かな口付け。やがて、名残惜しそうにゆっくりと唇を離して、史緒里はさみしく笑った。「私、行きますね」祐市を守るため、五霞を潰しに――「どうか、普通の幸せを……」それは自分では彼に与えられないものだと、史緒里は知っている。なぜなら彼女が進む先は、いつだって“戦場”なのだから。くるりと背中を向けた彼女は、もう、振り返りはしなかった。それから2時間経って――VIP病室の清潔なベッドの上で目を覚ました祐市は、得体の知れない不安に脈打つ自分の胸を、強く押さえた。なぜだろう。と
その頃ヘリの中では、真理恵が厳しい顔で海を見下ろしていた。果てない大海原のど真ん中に寄る辺なく浮かんだ船は、周りの海水を巻き込んで大きな渦を作り出しながら海中に引きずり込まれてゆく。操縦士が叫ぶ。「真理恵さん、帰還しましょう、残念ですがこの状況ではもう……」「まだよ!」真理恵の横顔は青ざめているが、その瞳にはまだ諦めきれない希望の光が強く灯っていた。「しおちゃんがこの程度でやられるわけがないでしょ……」鬼心流の後継者として修行する史緒里の姿を長年見守ってきた彼女は知っている。装備も無しに山中でサバイバルさせられたり、酸素ボンベもなしに大海原に投げ出されたり、人体のポテンシャルを最大限まで引き出しさらなる高みを目指すその修行は、もはや“ほぼ人体改造”の域にある。あの修行を耐え抜いた彼女ならばワンチャンあるのではないかと。思ってはいるのだが……「なんでこんなに待機組がいるの!」上空にはヘリが7機。うち3機は史緒里の生還を信じる真理恵が待機させた霞ヶ浦警備保障のものである。さらに追加で飛んでいる3機の霞ヶ浦警備保障機は、貴理子が指揮を執る“空飛ぶ情報統制室”こと各種ソナーおよびデジタル機器を搭載した探索機。「この距離なら生体反応を直接観測できるでしょ! 少しでも反応があったら即データ化、私に送って!」「頼りがいあるけど邪魔ぁ! この狭い空域になんでこんなにヘリがいるの!」さらにもう一機は今回の協力団体であるヴィリオットファミリーのプライベート機。ハッチを大きく開けたキョースケは、痛ましく震える声で「フラテッロ……」と囁き、献花を海に投げた。その隣ではジョバンニが「ニンジャガール……」と、これも悲痛な表情で“心臓を捧げよポーズ”をとっている。「早い早い早い、諦めよすぎ! あとそっちのオタク、その敬礼はニンジャ関係ないから!」そして波間には爽介が凄腕テクで操縦する一隻の高速艇。海上にいくつも浮かぶ渦の間をすり抜けながら、拡声器で声を響かせる。「しおちゃん、お兄ちゃんが助けに来たぞ!」「危険海域を疾走しないで! あとお兄ちゃん設定、まだ引っ張るのやめて!」真理恵が果てしないツッコミに疲れ切ったその時、海上にポツリと黒い点が浮かび上がった。「しおちゃん! 早く、網を下ろしてあげて、早く!」それを合図に、7機のヘリが救助用の網
祐市を拘束して銃を突きつけることには成功した五霞だったが、精神的にはすでに疲弊し始めていた。なにしろこの男、銃を突きつけられているというのに一切怯えの色がない。それだけではなく、ペラペラと喋くって交渉を続けている始末だ。この状況なのに、命乞いでも説得でもなく、“交渉”を!「つまり、俺を殺し、日立の本家を乗っ取り、その資金で軍需産業の世界に参入したいと、そういうことだな」「そうだ、すでにコネクションも作ってある、あと必要なのは資金! 資金なんだよ!」「ならば事業計画書を提出してくれ、その内容次第では投資をしてやろう、正当な商取引というわけだ」「そんなまどろっこしいことしなくても、日立家の資産を自由に使える立場になれば、手っ取り早いだろ」「一理ある。しかし軍需産業への参入はリスクマネジメントの観点から、お勧めしない。クリーンな企業であるという我がグループのイメージが損なわれた場合、一般消費者の購買意欲や、既存の取引先との関係性の変化などの損失は計り知れない。かつ、新たなノウハウの取得やマニュアルの構築など、専門家を招聘する必要もある」「しゃらくせえ! ビジネスの話をしてるんじゃねえんだよ!」「そうか、では別の側面から話をしよう、実は俺、もうすぐ父親になるんだ」「な、なんの話だ?」「生まれてくる子が幸せであるように……そして世界中の子供達が幸せであるように……ラブ・アンド・ピース、戦争などという不幸の種に金を出したくはない」「立派ぁ! 理念は立派ぁ! だけど今の状況を理解して!」五霞の情緒はジェットコースター状態。上げられたり下げられたり、振り回されてもうぐちゃぐちゃ。「まずはステップワン、いまお前は人質なの! 俺はお前を餌に、あの恐ろしい女を誘き出してなぶり殺しにしようと思ってるの!」「なるほど、悪人だな」「いいね、ようやく俺が悪人だと気付いたのか。じゃあステップツー、俺はお前らを巻き添えにして自爆する覚悟、だから船を爆破した、もうすぐこの船は沈む、タイムリミットは……あと10分ってところかな」「いや、君はこの船と命運を共にする気はないはずだ、なぜなら、日立家の財産を手に入れても死んでしまったら使えないからな、だから脱出経路なり安全装置がどこかにあるはずだ」「無駄に鋭い推理! なんなの! 天才なの? バカなの? ほんとちょっと、
日立みやびは恋愛小説でよくみる、いわゆる”虐げられた妻”である。みやびの嫁ぎ先である日立家は由緒正しい大財閥であり、義母はそこに入り込んだ”庶民”である嫁を嫌い抜いている。気まぐれに嫁を呼びつけて雑用や宴の下働きを押し付けるなんて日常茶飯事、口を開けば嫌味ばかり、時には”家訓”と称して体罰を与えることもある。夫――日立祐市(ひたちゆういち)は祖母がどこかから拾ってきた”庶民の嫁”であるみやびを恥ずかしく思っている。当然結婚式などは挙げていないし、世間に結婚を公表することもない。「俺には初恋の女がいる」と言って憚らず、みやびのことを都合の良い家政婦であるかのように扱う、まさにお手本通